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龍谷大学図書館の沿革

江戸時代の龍谷大学図書館

龍谷大学の歴史は寛永16年(1639年)、僧侶養成機関の学寮創建にはじまり、大正11年(1922年)、旧制大学令により仏教大学から龍谷大学となり、公教育機関へと質的に変化発展を遂げて今日に至っています。この龍谷大学創立370年余りの歴史は、同時に龍谷大学図書館の歴史でもあります。江戸時代の学寮・学林時代の初期の記録に次のような記事が認められます。
1649年図書10部が寄贈される。『龍谷購主伝』)
1651年学費で『倶舎論釈頌疏義鈔』を購入。 (同書末尾墨書)
1652年図書出納係として「捨頭」を任命。 (「学庠大衆位職制法序」)


これらの記事は、学寮創建から10年余を経た頃、既に寄贈・購入を含め図書の収集が行われていたこと、「捨頭」という図書出納係によって図書の閲覧業務が行われていたことを示しています。この図書出納係たる「捨頭」は「蔵司」「知蔵」とも呼ばれ、学林在籍の極めて永い所化より選ばれました。
また、学寮、学林の運営記録ともいうべき『学林万検』(大宮図書館所蔵)等に図書館関係記事を多く見ることが出来ますが、最も多いのが図書の寄贈・購入記事です。これらによると、僧侶・一般篤志家からの図書の寄贈が多数に及んだこと、同時に講義に必要な図書が経常経費で購入されたことが多数記載されています。
このようなことから、蔵書・経蔵(書庫)・目録・閲覧・係員・学生と図書館を構成する要素が認められ、前近代的ながら、江戸時代の学寮・学林時代にも既に「図書館」は存在していたのです。

明治・大正時代の龍谷大学図書館

明治19年(1886年)、知蔵服部範嶺が知洞の『龍谷學黌大蔵目録』に基づき所蔵確認・記入事項の訂正を施した『真宗学庠蔵書目録』を作成しました。
これによると、当時の所蔵図書は内典3291部、外典781部、計4072部であるとされています。江戸時代収集にかかるこうした蔵書は明治時代に質量両面にわたって飛躍的に増加・充実しました。それは、西本願寺門主の文庫であった写字台文庫の大学林への下附と仏教図書館建設運動にともなう寄贈図書の収集によって実現しました。 明治24年(1891年)、門主明如上人の命を受けて、前田彗雲・上原芳太郎が本文庫の再整理を行い、翌2月、大学林に19函(部冊数不明)が交付され、同37年(1904年)には残り全ての蔵書が下附されました。
このような図書の驚異的な増加にもかかわらず、単独の図書館の建物はなく、教室や本館をあてていましたが、1908年(明治41年)3月、信徒の寄付によって木造2階建ての図書館(閲覧室・事務室等)と土蔵造りの書庫を建築し、図書館としての形態を整え、大正4年(1915年)には更に書庫を増築しました。

昭和初期から第2次世界大戦終了までの龍谷大学図書館

上記のように、図書館は形態としては整えられましたが、蔵書や学生数の増加により、それまでの図書館では不備な点も多かったため、昭和9年(1934年)記念事業として新図書館の建築が決定され、本願寺・大学・同窓生が一体となって資財を集め、総工費50万円をもって昭和10年(1935年)9月に起工し、翌年5月落成をみ、11月に正式開館されました。しかしその後、第2次世界大戦に突入し、龍谷大学図書館も戦火の渦に巻き込まれることになりました。この影響として、まず、思想統制の一環として、図書館に対して既刊図書の閲覧禁止指定・図書の没収が日常化し、戦況の悪化にともない特高課員の来館による学生の閲覧傾向調査等が強化されました。龍谷大学図書館でも美濃部達吉著『憲法撮要』他55冊が警察に押収された上、多数の禁止図書を抜き出し、書庫の奥深くへ別置する等、図書館の自己規制も手伝い思想統制が完遂されました。また、出版状況も最悪で、出版禁止や紙の配給制度による専門書の出版激減や部数制限による入手困難な状況に加えて、戦火や敵性図書としての指定による洋書の入手が不可能となる等多くの困難がありました。さらに、図書館の利用者である学生が、学業に代え?戦地に赴き、それ以外の学生でも軍需産業への勤労奉仕作業に従事していたため、図書館のみならず、大学としての機能が全く停止してしまった場面をも迎えてしまう状況にありました。このような中で、昭和16年(1941年)12月3日「龍谷大学図書館防空計画」が決定されました。その後、昭和20年(1945年)になると、空襲が日常化し図書館全体を防護することが不可能な状況を迎えました。本学では他大学と同様、せめて貴重書だけでも戦火から守りたいとの必死の思いで空襲のなさそうな地域への貴重書疎開をすることになり、第1次計画として3780冊を対象として京都南部への疎開を実施しました。更に第2次計画が策定され、旧図書館の床板をはがして輸送箱を作成しましたが(経費は当時の図書購入費の55%)、空襲の拡大により安全な場所が激減しており、疎開先が未決定のまま敗戦を迎えました。

敗戦直後の龍谷大学図書館

上記のような混乱期の中であったとは言え、出版物の検閲を受け、資料の没収・焼却に甘んじたことは、人類の知的遺産を後世に伝えるべき任務を課せられた図書館にとって、恥辱以外の何物でもなく、残念ながら本学図書館とて例外ではなかったのです。 しかし、こうした思想の抹殺行為は戦後も繰り返され、戦争や全体主義・国体思想を鼓舞した図書は、大宮図書館地下階段下倉庫に集積され、1980年代まで人目に触れることはありませんでした。これは、図書館の意志にかかわらず、思想を選別し、抹殺行為に協力せざるを得なかったとは言え、拭いきれない汚点を残したといえます。 敗戦直後の図書館では、社会体制の否定という混乱の中で、とりあえず、国策図書の抜き出しと並行して、戦時体制の解除作業が実施されました。
第1:図書館防衛用の各種施設等の復旧作業。(防空壕の埋め立て・建物内の防火用砂の撤去・書庫各層に配置された消化用の貯水槽の撤去)
第2: 戦時中に空襲を避けて地方に疎開した貴重図書の引き取り、書架配架。
第3: 開店休業状態となっていた閲覧業務の再開。
このような作業を経て、施設の復旧が図られ、徐々に大学図書館の様相を取り戻して行きました。

龍谷大学深草図書館の開設

昭和33年(1958年)7月2日開催の理事会において、龍谷大学では文科系総合大学への第1歩として、商経学部(後に経済学部に変更)設置が決議され、第2の学舎として深草学舎を取得しました。それに伴って、図書館では、設置申請図書雑誌の準備(図書選定・購入・整理・申請目録作成)・新図書館の準備(建物の改造計画・運営方式の検討・移管図書の準備作業・搬入・整備)等を同時並行で進めました。図書収集の進捗につれ、作業所が必要となったため、大宮図書館1階閲覧室南側の一部を間仕切り、奥を整理作業所としました。 昭和35年(1960年)には、旧5号館に昭和35年限りの臨時の閲覧室及び書庫が設けられ、その後、経済学部開設と合わせ、昭和36年4月1日、ようやく改修された旧1号館に図書館を開設し、閲覧業務を開始しました。しかしこの図書館は、図書館とは名ばかりの書庫と閲覧席が設置されたものに過ぎず、しかも事務部門との共同使用で、図書館としては機能面でも広さの面でも不十分なものでありました。昭和41年(1966年)及び昭和43年(1968年)にそれぞれ経営学部、法学部が増設され、また戦後のベビーブームの影響もあって、学生数が大幅に増加し、図書館では書庫及び閲覧席の不足をきたしはじめました。このため、共同使用の事務部門が旧5号館に移転し、旧1号館を図書館単独の建物に変更しました。また、図書収容のため廊下等にも書架が次々と増設されましたが、それでも収容できない図書は床に山積みの状態でした。(この年に、大宮図書館に貴重書庫の「龍谷蔵」が、30周年記念事業の一環として新設されました。) 昭和43年(1968年)、「図書館建設委員会規程」が評議会で決定され、新深草図書館の建設が動き出しました。深草キャンパスにおける新図書館建設の正式決定は、昭和47年(1972年)5月になされ、同8月7日に起工式が挙行されました。工事中に建設現場より弥生式土器の破片が発見され、工事を一時中断しましたが、昭和48年(1973年)11月17日に無事竣工されました。その後、瀬田学舎が開設され、龍谷大学は総合大学として歩み始めましたが、第2次ベビーブームの影響により学生数が激増し、深草図書館では、多数の学生へ学習の場を提供し、また学生の需要を満たすだけの資料をそろえるために、施設の増築を考えざるを得ない状況なりました。そのような中で、平成3年(1991年)、研究室棟とともに現在の深草図書館の新館を着工し、平成5年(1993年)4月1日に開館しました。また、この平成5年にコンピュータシステムが始めて導入され、図書館資料の目録のコンピュータ入力も始まり、利用者が資料を検索する手段が、カード目録からコンピュータ検索端末へと移り変わってきました。

龍谷大学瀬田図書館の開設

昭和61年(1986年)9月30日、第14回評議会において理工学部及び社会学部の設置が決定され、滋賀県大津市の「びわこ文化公園都市」内に瀬田学舎開設の準備が始められました。それに伴い、図書館ではプランの検討ならびにその推進のための図書館プロジェクトチームの編成からスタートしました。そして、瀬田キャンパスがオープンした平成元年(1989年)に瀬田図書館も同時にオープンしました。この時点で既に瀬田図書館では、検索手段がカード目録ではなく、コンピュータ検索端末であり、資料も全て開架に配架されていたことから、深草・大宮図書館よりも一歩先を行く図書館としてスタートしました。その後、平成8年(1996年)には、瀬田学舎に国際文化学部が増設され、学生数の増加により、瀬田図書館でも施設の増築が行われました。これが、現在の瀬田図書館新館で、ここにはマルチメディアコーナーやAVホール等の最新設備が整っており、「情報館」としての瀬田図書館の特色がおおいに発揮され始めたのです。

インターネットの普及と学術情報センターとしての機能の展開

21世紀は、国際化・情報化の時代ともいわれているように、大学図書館を取り巻く環境も大きく変化しました。龍谷大学図書館では、平成11(1999)年からインターネットコーナーを開設し、学術情報の収集と提供を積極的に推進してきました。そのようなことから、平成13(2001)年には、図書館が全学の情報化の拠点として展開するために、名称を学術情報センターに改称しています。この傾向は、当時の日本の多くの大学図書館に共通したことでしたが、平成19(2007)年には、名称を従来の龍谷大学図書館に戻すことになりました。これは、電子データーに限らず幅広い学術情報の拠点としての役割を果たしていくためには、やはり伝統的な「図書館」という名称を冠することが相応しいとの判断によっています。
この間に平成15(2003)年には、第3期図書館システムが導入され、インターネット時代に対応した情報提供サービスへの対応が計られました。また、平成17(2005)年には、深草図書館分室が開室しています。同分室は法科大学院の図書室としての機能を有しており、法科大学院生の学習の拠点として展開しています。
さらに平成18(2006)年には、大宮図書館改修工事が完了し、同年に改修記念事業が実施されました。同工事は、大宮図書館の歴史環境に配慮した外観保存による本格的改修工事であり、外観は竣工時を維持しながら利用環境を改善したことが内外の評価を高め、平成20(2008)年の第24回日本図書館協会建築賞を受賞することになりました。また同年には、ハーバード大学の東アジア研究専門図書館であるイェンチン図書館と友好協定を締結しています。平成21(2009)年には、龍谷大学370周年記念事業の一つとして、「龍谷大学所蔵稀書展」を開催し、本学図書館の所蔵する貴重書等を広く展観しました。

最近の龍谷大学図書館

平成22(2010)年には、「龍谷大学学術機関リポジトリ(R-SHIP)」が正式発足し、本学の知的資源の積極的公開を計り、研究・教育への社会的貢献をおこなうことになりました。また、平成24(2012)年には深草図書館内に「グループ学習エリア」を開設し、学生の自立的かつ主体的な学びを支援する環境を創造しました。このグループ学習エリアは、本学におけるラーニングコモンズの嚆矢であり、その後の「龍谷大学ラーニングコモンズ」設置のモデルケースとなりました。またこの年には、私立大学図書館協会が主催する国際図書館交流シンポジウム「大学図書館における学習支援を考える」が本学響都ホールを会場に開催されました。
このように大学図書館の新たな役割が重視される風潮に応えるために、図書館のあるべき姿を定めるものとして、平成26(2014)年に「龍谷大学図書館の理念と目標」を制定しました。ここにおいて、図書館は「本学の学習、教育・研究および社会貢献の各活動を支援するうえで必要不可欠な学術情報基盤を整備し、『知の広場』として機能することを使命とする」ことを学内外に広く発信しました。
さらに平成27(2015)年度から、深草図書館は新棟・和顔館を中心に新しく展開しています。和顔館には、龍谷大学ラーニングコモンズ(スチューデントコモンズ、グローバルコモンズ、ナレッジコモンズ)が設けられており、図書館内のナレッジコモンズは、豊富な学術情報を活用しながら自由かつアクティブに学び合える、「知の交流空間」、「学びのリエゾン空間」として学修支援を展開しています。また同年9月に瀬田学舎にも龍谷大学ラーニングコモンズが開設され、瀬田図書館においてもナレッジコモンズが発足しました。
龍谷大学図書館は、第5次長期計画の包括的学生支援体制の整備にもとづいて、今後とも学びの深化や社会の期待に応えるべく、様々なサービスを学生をはじめとした利用者に提供し続けて参ります。
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